前半は、主に「物語」というものについて考えるところから始まり
(「物語の哲学」「国家のツジツマ」)、
友人の影響でミヒャエル・エンデについて知り(「モモ」)、
また、再び究極的なものを追求するようになった
(「異端の数ゼロ」、アートマンとブラフマン)。
後半は、小林秀雄との出会いが大きい。
彼のおかげで、
何を学ぶか、勉強するか、ということの前に、
学問をする、ということはどういうことか、
理解するとは、知るとは、分かるとはどういうことか、
について、真剣に考えてみなければならないと思うようになる。
今までは、ここの部分に気づかずにいたから、
本を読んだりしていても、しっかりと「分かった」という実感を得られなかった。
この消化不良感をなくすためにも、
まずは基礎的なところから、じっくりと時間をかけて取り組んでいきたい。
言葉については、日本語の土台に目を向ける意味でも、
明治期に外来語を翻訳して多くの単語が生み出されたことや、
大東亜戦争後に行われた、歴史的仮名遣いから現代仮名遣いへの移行、
という事実を知ることができたのも大きい。
年末からの新しい動きとしては、
外国人の友人と、政治の話をする機会が増えたことが挙げられる。
日本の、特に戦後の歴史や、現在置かれている状況について、
相手に一から説明する際の言葉が(当然知識も含めて)、今の僕には決定的に欠けている、
ということが分かってきた。
これまでは同じ日本人相手がほとんどだったから、
なんとなくで伝わる部分が大きくて、いちいち確認する必要がなかった。
でもその分、実際には言葉を曖昧に使っていたわけで、
外国人に説明する際には、ドイツ語の水準の低さも含め、その部分の欠如を痛感させられる。
そういう意味でも、
言葉に対して誠実に向き合い、
言葉を大切に扱っていく姿勢が、
これからの僕に求められている。