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魂に刻まれた一日

Updated: Feb 25, 2018

ちょうど19年前の今日、僕の父が事故で急逝した。


42歳という若さだった。


僕は今でもあの日のコトをハッキリと憶えている。


その前から家族関係は少しずつ変わり始めていたのだけれど、


僕においては父の死を境として、


全てが変わってしまったように思う。



家族の関係もさることながら、父の死を通して、


特に親戚内で人間関係のもっとも醜い部分を、


幼い僕はこれでもかと見せ付けられてしまった。


それでなくても周りを年上の人に囲まれて過ごし、


人目を気にする習性がついていた僕には、


人々の複雑に絡み合った感情の吹き溜まりの日々は辛かった。


それだから、僕はあの頃いつも祖母の傍にいたと思う。


祖母はいつも気丈で優しかった。



父の死をきっかけに全てが変わったと書いたが、


それは人は死んだらこの世から居なくなるという当たり前の事を


身を持って体験させられたという事なんだ。


今朝までいつもと同じ様に出勤していた人間が突然帰って来なくなる。


一週間待ち、一ヶ月待ち、一年経っても帰って来ないという事なんだ。



特に死の予感が全く無かったから、居なくなる時の喪失感が半端じゃなかった。


そしてまた、人々の心の持つ闇の部分を子どもながらに感じたことも大きくて、


その後の死生観というか人生観に大きな影響を与えたと思っている。


だから今でもこうして表現することを続けているのだろう?



父の命日を迎えるに当たって、


7年前に書いた「13回忌」という文章を再度読み返してみた。


自分で言うのもなんだけど、素直な感情が込められていて、


いつ読んでも当時の状況が蘇って来て涙が出てくる。


祖父は父の死がよほどショックだったらしく、父を追うようにして亡くなった。


祖母は家族が誰もいなくなった家で一人余生を過ごし、4年前に癌で亡くなった。



そして僕は日本を離れドイツで暮らしている。


来月で32歳になる。


あと10年で父に追いついてしまう。


こんな事を計算しても、全く実感が湧かない。



突然の父の死があって以降、僕は死というものにぶつかり続けている。


そうは言っても僕は重病を抱えている訳でも無ければ


身の危険を感じるような環境に居る訳でも無いから、


僕の思い抱く死とはかなり観念的なのだと承知しているけれど、


それでも死と向き合う事で僕は生を実感し、


また表現を獲得して来たと思っている。



そしてこれからもこの事を決して忘れる事の無い様、


「13回忌」をここに再度投稿し、


また、父だけでなく、家族のみんなに対する想いを噛み締めたいと思う。






「13回忌」


(2005年4月22日執筆)



お父さんが急逝したのは今から12年前の4月16日。

一生忘れることの出来ない日だ。

僕は今でもあの日のコトをハッキリと憶えている。


僕は中学一年生になったばかりの12歳。

学校の休み時間、教室でイスに座り、スケッチブックに落書きをしていると

担任の先生が僕を呼びに来た。


「お父さんが事故に遭ったって、うん、そんな、大したコトは、ないと思うけど...」

実はその何年か前にもお父さんは事故で入院していたこともあり、

その時点では僕は大して驚きはしなかったけど。

先生の語り口調に少し違和感を覚えた。


すぐに母が車で迎えに来た。

母の表情は明らかに動揺していた。

後で聞いた話では、父はほぼ即死に近い状態だったため、

恐らくこの時母はその事を知っていたのだろう。

母の顔を見た僕は、これはただ事ではないということを直感してしまう。

不安で言い知れない緊張感に襲われた。


救急センターに着くとすぐに父の元へ案内された。

お父さんは口に酸素マスクを付けられ、

心臓マッサージを受けていた。


目をつむったままの顔はパンパンに腫れていて、

まるで別人のようだった。


僕には目の前で起こっていることを飲み込めないでいた。


ただ最悪の言葉だけは頭に浮かんでしまわないようにと必死で振り払っていた。


おばあちゃん、おじいちゃん、そして高校生だったお姉ちゃんが次々に病院に入って来た。

さすがに一人一人観察している余裕は無かったが、

おじいちゃんは放心状態のようだった。

お姉ちゃんもほとんど言葉を発しなかったが、

放心というよりもその場をじっと見つめていると言った感じだった。


おばあちゃんが一人大きな声で

「慶一!どごが痛んだ?ここか?ここか?

あぁ、ちらましねごど!どごがいでのよ?」

とお父さんの体をさすりながら、必死に話し掛けていたのが忘れられない。


時間が経つにつれて、みんなの表情を見るにつけて、

振り払っていたはずの言葉が首をもたげてくる。


よく分かっていないだけかも知れないけど、

僕は不思議と冷静だった。


しかし次に医者が発した一言で全てが変わってしまった。


それは僕と母が医者に呼ばれ、別室にて父の状態を告げられた瞬間だった。




「99%、だめです―――」




実際、医者は何と言っていたのかよく憶えていないが、

「だめ」という言葉が放たれた瞬間、


それまで堪えていたものがせきを切って溢れ出るかのように

僕と母は同時に、

大声で声にならない声を上げていた。


そしてその後の事はよく憶えていない。

憶えているのは暫くの間、

病院の廊下で声を出して泣いていたことだ。


通りかかる人が笑いながら喋っているのを見て

なにがそんなにおかしいのか?と

憎しみすら覚えた。

絶望と言うとその通りだが、

あの時の感情を言葉で言い表すのはとても難しい。


ただ、

とにかく悲しくて

悲しくて

悲しい、

それだけだった。


あの時から今年で12年経った。

僕は大学を卒業し、就職もせずに絵で何とかしようと

アルバイトをしながら生計を立てている。

お父さんも色々な場面で僕の周りに”登場”しては

僕を勇気付けてくれている。


一つ目は僕が大学生の時。

家族みんなが僕が絵の道に進むことに反対していたけど、

お父さんは夢の中に出てきて無言で僕のことを抱きしめてくれた。


二つ目は昨年。

自転車で9日かけて東京から秋田のお父さんのお墓参りをしに行った時の事。


ゴールして墓参りを済ませた後、おばあちゃんの家に寄って、

さて母の家に帰るかと外に出て

ふと墓がある方角に目を向けると

お父さんの墓がある山の真上に

でっかくて、真っ赤で、まんまるい

お月様が出ていた。


これを他の人は、自分の都合のいいように解釈しているだけと

そう言うかも知れないけど、

僕は信じている。


お父さんがどこかで見守っていてくれていることを。


僕が恐がりなのを知っている父だから、

幽霊としてではなくて

別な方法で見てくれている。


僕はそう思う。


お父さんも僕の事を信じてくれていると思う。



お父さんがいる。


家族がいる。


そして僕がいる。



この気持ちを忘れずに、

大切に

大切に。


みんなと一緒に生きていこう

と思う。

(2005/04/22)



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