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2014年の制作

混沌を作った後の進み方が大きく変わった年だった。

これまでは、混沌の中に自分の存在を強く押し出そうと意識していた。

これは、日本社会で感じていた心労と無縁ではないだろう。

自己の喪失を恐れる気持ちが、僕に絵を描かせていたんだろうし、

それによって、ある形式化された形が生み出されてきたんだろう。


それが、ベルリンで暮らすようになって、社会の圧力から解放されたことで、

無理をして振る舞うというような必要がなくなってきた。

そこに来て、「物語論」に大きな影響を受けたこともあって、

( この場合は「解釈するとはどういうことか」 を考えることになるわけだけど、)

混沌を作った後で、その混沌をどう解釈するか、ということを考えるようになった。


混沌は混沌として別に扱うのではなくて、


混沌を自分なりに解釈していくことを通じて、自分を作り上げていくというものだ。

これは知人に頼まれてレッスンをしていく中で、

自身を客観的に見つめ直すことが出来たのも大きい。


この新しい制作の形式は、

自分の生き方、考え方に、より適したものと言える。

不確定のこの世の中で、

最終地点を思い描かずに、自分の羅針盤、感覚を頼りに、

その時その瞬間における最もいい(正しい)と思われる道を選び取って行く。


そして、後になって、自分が歩んできた道を振り返ってみて、

そこで何が起こっていたのかを解釈し、確認する。

そう、今まさにこうして昨年起きた事を思い返しているのと同じように。


そういう意味で、日本時代の作品はそれとして、

今描いている絵は、より自分というものに即した作品になってきたと言えるだろう。


それとは別に、2013年末に人物画、そして2014年は風景画を描いた。

これは自分の内面から生み出すものと違って、描く対象が既に存在するものだ。


外に描く対象を求めるのは「November」シリーズ、


さらにその前には「Roots」シリーズがある。

それぞれに動機は違っていて、

「November」の場合は単純に一ヶ月制作をさせるための方法であったし、

「Roots」の時は父親を始めとして、家族をより近くに感じたいというのがあった。

それと「Border Line」シリーズは「Roots」の流れで他にも色々な対象を描いてみようということだった。

しかしそれ以降、「November」を除けば、意識して外部に題材を求めることはなくなっていた。


それが、最近はまた描こうという気持ちが出てきた。

ベルリンに来て精神的に解放されたというのもあるだろう。

こだわりは一旦置いておいて、より自由に挑戦してみようという思いが出てきた。

そして、ゴッホに出会い、ゴッホを追っていく内に、

彼が描いていたものを僕も描きたいと思うようになったのが大きかったのだと思う。


ゴッホは肖像画を、そして、風景画を描いた。

だから僕も、僕なりの肖像画を、僕なりの風景画を描いてみたい。


それにはPappelreiheカフェの存在が大きかった。

多くの人と出会える場所で、しかも展示をさせてもらえる。

僕としてもカフェの常連として、より皆と距離を縮めたいという思いもあったから、

カフェの常連を描くという試みは、すごく理に適っていた。


そして風景画。

僕が4年間暮らしているシラー地区。

この、自分の思い入れのある場所を描くというのは、

自分自身、とても温かみのある企画だと思った。

風景を描く場合、立体的な視点が要求されることに気がついたのも収穫だった。

これまでは平面的なものばかりを描いていたように思うし、

これからどう変化していくか分からないが、いい経験だったことは確か。

制作自体も非常に充実していた。


さて、ゴッホのおかげもあって、自分の制作の幅が広がったことは確かだろう。

それは間違いないのだが、ここでずっと腑に落ちていないことがある。

それは、外の世界を題材にして描くことと、


僕の生き方にどれだけ接点があるかということだ。

僕の人生における必然性という視点で見ると、

それを行う意味が今ひとつ見いだせていない。


内面世界から取り出す作品が自分そのものであることは自明としても、

外部世界を描いた作品と自分との間には、まだどうしても距離を感じてしまう。

それはまだ対象を「自分とは別の存在」として描いているからではないだろうか。

隔たりを感じるのも、対象を自分に近づけることをしていないからではないか。


ゴッホはどうか。

ゴッホは内面を表す抽象的な作品を残しはしなかったが、

それは対象物に自分のその内面世界を投影させたからだろう。

対象と同化して化学反応を起こさせたと言ってもいい。


これは伊藤仁斎、小林秀雄が言っていたことに通じる。

つまり、学問をする、書を読む、歴史家になるという時に、

ここで大事なのは、

「 学んで知るのではなく、思って得ることである、」

という教えがまさに当てはまるのではないか。


僕はまだ対象を対象としてしか見ていなかった。

対象との付き合い方がより親密になれば、

その対象物が僕の人生の中で大きな意味を持つことになろう。

そして僕は対象をより実感することができるようになるだろう。


これは今後の課題である。

言葉と同様、対象にどれだけ交わることができるか、

これからはそこに目を向けて取り組んでみたい。



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